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草思社のblog

ノンフィクション書籍を中心とする出版社・草思社のブログ。

『犬たちの明治維新─ポチの誕生─』 「はじめに」を特別公開

「犬たちにとっての幕末明治」をいきいきと描く傑作ノンフィクション

『犬たちの明治維新─ポチの誕生─』。

江戸時代の犬と明治維新以降の犬の状況が

分かりやすく叙述された「はじめに」を公開します。

 

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仁科邦男・著 『犬たちの明治維新─ポチの誕生』

はじめに──犬に「値段」がなかったころ

これから述べようとしているのは、日本のどこにでもいた名もない犬たちの盛衰史である。幕末開国から明治維新、それに続く文明開化によって、犬たちは大変革にさらされた。人の世の出来事は人によって記録されるが、犬の世界に起きたことは人の歴史の間にちらちらと垣間見えるだけだ。しかし、その断片をつなぎ合わせて行くと、犬たちに何が起きたのか、その全貌が少しずつ明らかになっていく。

かつて日本の犬には「値段」がなかった。犬を買うような人はどこにもいなかった。民俗学者の柳田国男が『明治大正史・世相篇』の中で「犬は無価値だった」と述べているのは、そのことである。無価値とは財産としての価値がないという意味だ。

狗(いぬ)は支那では食用として居た為でもあるか、鶏犬(けいけん)と称して夙(はや)くから各家の有(ゆう)で あったが、日本では久しい後まで村の犬というものがあって、従って又無価値であった。尤(もっと)も食物の成るべく多い処、愛する人の傍に寄って来るのは当り前で、夜も定まった寝床があったであろうが、飼主はと問うと無いと答うべき犬は多かったのである。

食用であるニワトリがそれぞれの家の所有物であるのと同じように、中国では犬を食用にしていたためか、犬もまた各家の所有物だったというのである。ところが日本の犬事情は中国とは大いに異なり、犬の多くは各家の所有物ではなく、村の犬として人とともに暮らしていた。柳田は明治八年、兵庫県神崎郡福崎町に生まれた。子どもの時から犬好きだったが、「私など生まれた村では、村の狗というのが四、五匹は常に居たが、狗を飼っている家は一軒もなかった」(『白山茶花(しろさざんか)』)という。

柳田がかわいがっていたのは村の犬だった。村の犬だから、個別にお金でやりとりするような財物であるはずがなく、したがって犬は「無価値」であり、「値段」がなかった。ただ座敷犬のチン(狆)だけが例外で、江戸時代には小鳥と一緒に鳥屋で売られていた。日本人が犬にも値段があることを知ったのは横浜が開港し、新しく造成された居留地に西洋人が住み始めてからのちのことである。

安土桃山時代、日本にやって来たポルトガルの宣教師たちはキリスト教を布教するために日本語を懸命に勉強した。ザビエルが鹿児島に上陸してから五十四年後の一六〇三年(慶長八年)、イエズス会が『日葡(にっぽ)辞書』(日本語—ポルトガル語辞書)を刊行した。収録語数は約三万二千八百語。日常で使われていた日本語のほとんどはこの辞書に収録されている。その中に「サトイヌ」(里犬)という言葉がある。

【サトイヌ】 村里に養われている飼犬(『邦訳日葡辞書』)

説明文は簡潔で、しかも要点をきちんと押さえている。飼犬といっても個人で飼っているわけではない。村里に養われている。柳田がいう「村の犬」がこれだ。里犬は、村では村の犬、村犬になり、町では町の犬、町犬となる。ふだんはただ犬と呼ばれている。

 『日葡辞書』には犬に関する言葉が二十三ある。そのすべてをあげておこう。

犬・戌(いぬ)、山犬、唐犬(とうけん)(外国犬)、むく犬(毛の長い犬)、鷹犬、小鷹犬、鳥犬(以上三語は猟犬)、牝犬(めいぬ)、斑犬(まだらいぬ)、里犬、犬追物(いぬおうもの)、犬箱(いぬばこ)(小物入れ)、犬蝿、犬走(いぬばしり)(壁や塀ぞいの狭い敷地)、犬招き(刀の鞘(さや)の先端)、犬飼星(いぬかいぼし)(牽牛星(けんぎゅうせい))、戌の刻、犬鷲、犬蓼(いぬたで)、犬桐(いぬぎり)、犬山椒(いぬざんしょう)(以上三語は植物名)、犬死(いぬじに)

この中に飼犬という語がない。『日葡辞書』ができたころには、飼犬という言葉はあまり使われていなかったのだ。大名や武士の中には犬を飼う者がいたが、その犬は飼犬ではなく、「手飼いの犬」と呼ばれるのがふつうだった。「飼犬に手をかまれる」という諺は、江戸時代初期の諺の本には「手飼いの犬に手をかまれる」と書いてある。言葉遊びでもある。手飼いに手をかまれるから面白い。

江戸初期に飼犬という言葉がなかったわけではないが、用例が少ない。私の目に触れた範囲では徳川三代将軍・家光の時代、寛永十一年(一六三四年)に薩摩の島津家久がわが子・北郷久直に与えた「御教訓之條々」に見えるのが古い。都城(宮崎県)の北郷家を継いだ息子に「飼犬は十匹より上はやめるべきである」と君主の心得を述べている。犬にかまけて治世をないがしろにしてはいけないという教えである。

五代将軍・綱吉の登場以前には、鷹狩に使う「御鷹」の餌にするため、幕府や大藩では石高に応じて村々に犬を供出させていた。これを「御鷹餌犬(えさいぬ)」と呼ぶが、「御鷹飼犬」と書いている例も少ないながらあることはある。この場合の飼犬は鷹の餌にするのが目的で、われわれが考えている飼犬とは意味が違う。

飼犬という語が一般化するのは綱吉以降のことだ。「生類憐みの令」により、犬は「飼犬」と「無主(むしゅ)の犬」に大別された。無主の犬のほとんどは町犬で、飼主だという人物が名乗り出ない限りは、中野(東京都中野区)などにつくられた犬小屋に収容、保護された。

町犬は野良犬とは違う。町犬は長屋や横町、お寺や神社など、そこの住人や顔見知りの人から餌をもらい、不審者が来れば吠え、共同体の一員として暗黙のうちにその存在が認められている。一方の野良犬は共同体の一員ではない。「生類憐みの令で野良犬は犬小屋に収容された」と書いたものが多数あるが、野良犬というのは正しくない。犬小屋に収容された犬のほとんどが町犬である。犬小屋の犬は「日ならずして(たちまち)十万疋に及ぶ」と幕府編纂『徳川実紀』に書いてあるが、これは人に慣れた町犬だから簡単に収容できたのであって、野良犬ではそうはいかない。

 『日葡辞書』には野良犬という語もない。野良猫という言葉は鎌倉時代の短歌の中に見えるが、野良犬はあまり使われる言葉ではなかったようだ。野良犬とは野原にいる犬という意味だが、江戸時代中ごろには「ろくでもない犬」のことを野良犬と呼んでいる。明治新政府は各府県ごとに「畜犬(ちくけん)規則」を定め、綱吉政権と同じように犬を「飼犬」と「無主の犬」に分けたが、庶民は官製用語の「無主の犬」になじむことなく、飼主のいない犬を野良犬と呼ぶようになった。

江戸時代、クロ、アカ、シロ、ブチ、デカ、チビその他、ほとんどの犬は毛色や見た目の形で名前が呼ばれた。だれもがわかる共通の名称だった。ところが、明治の「畜犬規則」により、飼主の住所、氏名を書いた名札をつけていない犬は、すべて野犬として撲殺されることになった。小さな共同体の中で人とともに暮らしてきた里犬(町犬、村犬)は、個別の飼主がいないため、野犬として扱われた。殺されたらかわいそう、と名札をつけられた里犬だけが生き残ることができた。明治時代は洋犬至上主義の時代だった。いつの間にか、在来の日本の犬は姿を消し、山村部にわずかに生き残った猟犬だけが日本犬として生きながらえた。

飼主がいて、飼犬がいる。人と犬との関係が、すべて「個」と「個」になった。それと同時に、西洋式に犬にも個別の名前がつけられるようになった。日本の犬たちの明治維新・文明開化は、犬が個別の名前を持つことから始まったとも言えるだろう。その時つけられた最もポピュラーな名前がポチだった。言い換えると、ポチの誕生とともに里犬は絶滅したのである。

そろそろ日本の犬の盛衰史の各論に入ろうと思う。ペリーが黒船を率いて二度目の来航をした時、長州藩士の吉田松陰はアメリカに密航する計画を立てた。当時はまだひなびた漁村だった横浜村で小舟を盗み、黒船に乗り移るつもりだった。しかし、不審な男を見て集まって来た村犬に吠えられ、松陰は計画を断念した。まずはその話から始めよう。