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草思社のblog

ノンフィクション書籍を中心とする出版社・草思社のブログ。

日本航空123便墜落事故現場、まだ誰も見たことのない四季折々の風景

十字架を背負った尾根 ――日航機墜落現場の知られざる四季

清泉亮 著

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『十字架を背負った尾根 ――日航機墜落現場の知られざる四季』

著者・清泉亮さんが語る

「御巣鷹の尾根、四季おりおりの風景のなかで、
死者を想い、生者である読者ご自身の30年間を
振り返っていただければと思います。」

◆老夫のつぶやき、慰霊の尾根を守るという報道されない日常

 数年前の秋に、御巣鷹の尾根に慰霊登山をして、昇魂の碑の前で一人の老夫と出会ったのが本書の執筆に取り組むきっかけでした。
 この老夫は、御巣鷹の尾根を管理する山守、いわば墓守として知られている人で、これまでにも新聞やテレビなどでも取り上げられることの多い人物でした。この人物が尾根で言ったある一言が、僕の心に深い余韻を残すことになりました。こう言ったんです。
 「山に来るマスコミは、なんかねーか、なんかねーかって…そればっかりだ。でも、何にもねーときにも俺たちは一生懸命やって尾根を守っているんだ」
 つまり、メディアは常に、大きな話、ドラマのあるネタを求めてばかり、そんなときばかり寄って来るんだと嘆いていたわけです。でも、御巣鷹の尾根を守る日常こそ、遺族だけでなく多くの国民にも伝えるべきじゃないのか、と。老夫はそういうわけです。
 今年は墜落事故から30年目の節目です。メディアをはじめ、みんな事故の記憶は風化させてはいけないと声高におっしゃいます。しかし、目立った出来事だけが報道されていくなかで、じつは風化というのは現実のものとして加速していきます。目立った出来事というものが、数としても量としても少ないからでもあるでしょう。
 御巣鷹の尾根でいえば、毎年夏の開山と閉山、そして墜落した8月12日の慰霊祭が報道のタイミング、つまり目立った出来事、ということになります。ですが、御巣鷹の尾根を守り続けている、老夫をはじめ周辺の集落の人たちの取り組みは、そうした大きなイベント以外の、人目につかない報道されない部分のほうが圧倒的に大きいわけです。
 僕はつねづね、物事には事件や事故などの、誰の眼にも明らかな「鋭角」があれば、かならずそこにはそれを取り巻く、より大きな「鈍角」があると思っています。その鈍角こそが、鋭角を支えているわけです。
 日ごろは目立たない鈍角の事柄を人びとに伝える作業、それが僕のテーマであり、ライフワークです。つまり、僕にとっては活字を通して伝えるべきものは、つねに物事の「鈍角」にこそあるのです。尾根で出会った地元の老夫の言葉は、そんな僕の気構えに強く訴えてくるものがありました。
 老夫との出会いは僕に、墜落事故についての新しい視点をもたらしてくれました。そうか、30年という時間は、墜落現場を守る土地の人たちの30年でもあるのだと。そうした人たちの30年の風景は、毎年登ってこられる遺族の人たちや慰霊登山の人たちでさえ、いまだ目にしたことのない景色なのだろう。四季折々のそうした風景を多くの人たち、とりわけ遺族の方々に届けられたらと思い、この本にまとめたのです。

◆520人の墓標を預かり、守りつづけることの現実

 事故現場は行政上の区分こそ、群馬県上野村ですが、当然、人為的に人間が線を引いただけのもので、自然環境の連なりは途切れることはありません。
 事故当初、墜落現場が長野県側だと誤認されたように、墜落現場は上野村と隣接する長野県南相木村や北相木村に取り囲まれた山岳地帯でした。そこは、冬になれば、時にマイナス20度にも達する、地元の人々から「シベリアよりも寒い」と言われる場所でもあります。
 御巣鷹の尾根は10月下旬の閉山から4月末まで、冬の間、つまり一年のうち半年間は閉山しているので、遺族も関係者も登ることができません。
 けれども、一面雪に閉ざされたそんな尾根に、弔いの花を抱えて、一歩一歩、もはや道さえ見えない山の斜面を登ってくる地元の人がいます。事故現場の昇魂之碑に、供養の花を捧げるのです。
 でも、そんな風景はけっしてメディアに報じられることはありません。
冬の御巣鷹の尾根の土がどうなっているのか、誰にも想像はつかないのではないでしょうか。早くも秋の段階で、時に10センチも20センチもある霜柱が斜面の土を持ちあげます。冬は凍てつき、シャベルでさえ跳ね返すほどに石のように硬くなります。
 その凍土を踏みしめ、春に登って来る遺族のためにと花壇を整備して、導水路を確保して、水芭蕉の棚を守る地元の人間がいるのです。
 報道される夏の慰霊祭での灯篭流しの光景だけでは悟ることはできませんが、墜落現場を囲む村々は今や日本有数の過疎地域です。高齢化が進み、国民保険の財源さえ、保険料からでは確保できず、村の一般財源から繰り入れるなど、その高齢者たちの生活を支えるのにも手一杯の状況です。
 観光資源といえば、キノコや山菜類か木工製品といったものくらいです。地方創生と声高に叫ばれていますが、とても「創生」という響きがリアリティを持つような場所ではありません。
 墜落事故が起きた1985年は奇しくも、世に言うバブル経済が始まった年でもあります。墜落現場周辺の村々はそうしたバブル景気からも取り残され、人口と経済ともに衰退の一途をたどるばかりだったのです。
 地元のある人からこう言われたことがあります。
 「俺たちが過疎になった原因はどこにあると思ってるんだ。戦後、産児制限を国から押し付けられて、それで子供の数が少なくなって、今ごろになって過疎対策だなんだと騒いだって」
 僕が言いたいのは、過疎対策の原因ではなく、現地の人たちは「中央」というもの、「東京」というもの、都会というものに対してそういう感覚を、心の底のどこかに澱のように抱えているということです。戦後、地方は都会の理屈を押し付けられて、さらには煽りを受けて耐え抜いて来たという、そんな思いはいまだに根強いんですね。墜落事故が起きたのも、そういう心象風景をかかえこんだ場所だということです。
 彼らにとって、墜落事故はまさに「中央」からもたらされたものだったのです。そしてその結果、未来永劫、土地に縁のなかった人びとを供養していくという「役」を負ったのだという思いも実際にあります。
 彼らは決して、大手メディアの記者さん達には、決して不用意には洩らしませんが、なんで俺たちのところに、なんで俺たちが、という複雑な心境は当然のものだと思います。でも、それを押し殺して、縁のなかった人たちを供養してあげたいという気持ちを優先させて、30年間にわたって、供養しつづけて来た、尾根を守って来た。その現実を知れば、その意味は一層、重いものであることが理解して頂けるのではないでしょうか。
 村は慰霊の園という財団法人をつくり、尾根や、村内の慰霊碑の管理・運営をしています。実際、この慰霊碑や慰霊地を整備するときに、村からはこんな声があがりました。
 「村から出征していった戦没者慰霊碑はどうするんだ。村には縁のない人々の墜落事故の慰霊地だけ整備して、村のもんである戦没者慰霊碑はそのままか」と。
 当然の気持ちだと思います。それほどに村というのは人間の精神的な紐帯が緊密です。内の者が最優先とされるそうした土地柄で、520人の墓標を預かり守りつづけてきたという現実は、とてつもないストレスでありうるのです。
 それを乗り越え、克服して、受け止めて来た墜落事故からの30年。
 御巣鷹の尾根の風景はその30年の風景でもあるということを、僕はぜひ多くの方々にも知っていただきたいと思いました。

◆30年前のあの日の記憶、この30年間の自分が生きてきた道

 尾根を訪れる人たちは、遺族や関係者ばかりではなくみな、それぞれの「事故の瞬間」の記憶を抱えておられます。30年前の事故の瞬間、自分がどこで何をしていたのかという鮮明な記憶です。
 これはもしかすると、僕を含めた戦後世代における、終戦体験のようなものではないのだろうか、と思う瞬間が多々ありました。戦前、戦中生まれの人たちはみなさん、8月15日の終戦の日のことをよく憶えておられます。
 戦後世代にとっては、終戦体験は持ちえないけれども、8月12日の墜落事故の夜の自身の置かれた記憶は鮮明です。ちょうど、奥さんとの結婚の許しを得るために奥さんの実家にいくところだったとか、予備校から帰って来てホッと一息ついていたら、船の出港準備をしていたらなど、本当に銘々の「あの日あの瞬間」があるのです。
 そうした人たちが今も山に登って来るんです。そこで死者を思い、生者である自身の30年間を振り返っておられます。尾根はそういう意味で、ひとつの巨大な事故ということを超えて、自身が生きてきた道を立ち止まらせ、振りかえらせる、人生のしるべになっているのはないでしょうか。
 『十字架を背負った尾根』というタイトルには、事故の十字架というだけではなく、僕たちのような戦後世代の人生30年の記憶をも背負ったという意味を込めました。それぞれの瞬間において、生者はつねに、縁のある人、ない人を含めた死者という存在を乗り越えて、今をつないでいきます。
 航空機事故という惨劇の地は、30年を経たいま、多くの人たちに開かれた人生の道標としての意味を果そうとしています。その場所を吹き抜ける風を、尾根の四季とともに感じて頂ければと願っています。
 「30」年という数字そのものに、決定的な意味があるとは思えません。時間はよどみのない現象なので、40年目も来れば、50年目も訪れます。しかし、節目に意味を持たせるのであれば、ぜひ、悲話や秘話、ドラマといった「他者の物語」ではなく、時間を振り返る自身のドラマを紡いでいただければと思います。
 現地に行ったことがある方も、また、まだない方も、この本を読み進めるうちに、尾根の四季のなかで自身の30年に思いを馳せることがあるかもしれません。本書がそのきっかけとなり、それが事故の犠牲となられた方々への、何よりのご供養になればと切に願ってやみません。

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(写真提供:清泉亮)

(担当/藤田)

著者略歴

清泉亮(せいせん・とおる)

1974年生まれ。人は時代のなかでどのように生き、どこへ向かうのか―。「ひとりの著名人ではなく、無名の人間たちこそが歴史を創る」をテーマに、「訊くのではなく聞こえる瞬間を待つ」姿勢で、市井に生きる人々と現場に密着し、時代とともに消えゆく記憶を書きとめた作品を発表している。前作『吉原まんだら―色街の女帝が駆け抜けた戦後』(徳間書店)は各紙誌で絶賛された。本作品を書き下ろすにあたっては、誰も見ぬ尾根の四季を自らの目で見るために、現場近くに移り住み二年にわたる暮らしを続けていた。

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