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【立ち読み用公開】「自然」という幻想 ――多自然ガーデニングによる新しい自然保護(エマ・マリス 著 岸由二・小宮繁 訳)

「自然」という幻想
――多自然ガーデニングによる新しい自然保護
エマ・マリス 著 岸由二・小宮繁 訳

 

従来の自然保護が、人間の影響を排除して「過去の自然」を取り戻すことや「手つかずの自然」を守ることばかりに固執してきたことを批判し、もっと多様で現実的な目標を設定する自然保護のあり方を提案する本書『「自然」という幻想』。その冒頭部分を無料公開します。

「自然」という幻想: 多自然ガーデニングによる新しい自然保護

「自然」という幻想: 多自然ガーデニングによる新しい自然保護

 

 

第1章 自然を「もとの姿に戻す」ことは可能か

●自然は「遠きにありて思うもの」ではないはずだ

 過去300年で、私たちは多くの自然を失った。「失う」という言葉の持つ2つの意味でだ。まず、多くの自然が破壊されたという意味で、私たちは自然を失った。森は住居になった。小川は、暗渠と駐車場になった。リョコウバトも、ステラーカイギュウも消えて、博物館の薄暗いギャラリーの毛皮と骨格標本になった。そして私たちは、もう一つ別の意味でも自然を失った。私たちは自然のありかを見失った。私たちは、私たち自身から、自然を引き離し、見失ってしまったのである。 私たちが間違ったのは、自然は、「私たちと離れたところに」、どこか「遠く」にあると考えるようになったからだ。私たちはテレビで自然を見る。豪華な雑誌で自然を読む。私たちが思い描く場所は、どこか遠く、束縛のない野生、住民も道路もフェンスも電線もない、手つかずの、季節の変化のほかは変わることのないような場所なのだ。手つかずの野生=ウィルダネス[wilderness]という夢想が私たちに襲い掛かる。そして私たちは自然について盲目になる。

 生態学者の多くは、発見できたもっとも手つかずの場所を研究の地として、生涯を送る。保全活動家の多くは、ウィルダネスの領域を変化させまいと全力を尽くし、生涯を送る。私たちは、「原生林」の断片に、最後の「偉大な自然地」に、どこよりも希少な「手つかずの生態系」にしがみつくのだが、それらはどれも、私たちの手元から消えてゆく。石鹸の小片のように、どれも小さくなって、消えてゆく。私たちは嘆く。いつも嘆いている。守るべき場所を増加させることなどできないからだ。それらはどれも、年ごとに、衰退してゆくばかりである。

 本書は自然への新しい見方がテーマだ。慎重に管理されている国立公園も、広大な北方林も、無人の北極の地も、自然である。しかしあなたの庭の野鳥も、マンハッタンの五番街をぶんぶん飛ぶミツバチたちも、植林地で列をなすマツも、都市河川の川辺のブラックベリーやバタフライブッシュも、道端のニワウルシも、畑を駆け抜けるウズラも、雑草と藪に覆われてヘビやネズミの徘徊する放棄された畑も、「侵略種」と名指しされる植物が鬱蒼と茂るジャングルも、見事にデザインされたランドスケープガーデンも、緑化屋根も、高速道路の中央分離帯も、アマゾンの奥深くに抱かれた500年の歴史を持つ果樹園も、そして、ゴミ捨て場から芽を出したアボカドの木も、自然なのだ。

 自然はいたるところにある。しかし、どこにあるとしても必ず共通する特徴がある。「手つかずのものはない」、ということだ。いま現在、地球という惑星に、手つかずのウィルダネスは存在しない。私たちは、住み場所とする景域=ランドスケープ[landscape]を、過去数千年にわたって変化させてきた。いまやその範囲は文字通り地球全体に広がっている。深呼吸してみよう。あなたの吸い込んだ空気には、1750年の吸気に比べて36パーセントも多い二酸化炭素が含まれている。もとに戻ることはないのだ。以下の話題は、とりわけ、象徴的といえるかもしれない。廃棄された郊外の住宅にボブキャットの家族が暮らすようになった。人の気配があるとクマに襲われにくいのでイエローストーンのアメリカヘラジカは道路の脇で出産するようになった。車の複雑なクラクション音に反応してフルにさえずる野鳥たちがいる。もちろん、もっと重大なのは、気候変動のような地球規模の現象であり、生物種の移動であり、大地の大規模な改変である。

 認めるか否かにかかわらず、私たちはすでに地球全体を管理しはじめている。意識的、効率的に管理を進めるために、私たちは、自らの役割を認め、引き受けてゆかなければならないのである。私たちは、手つかずのウィルダネスへのロマンチックな思いを抑え、私たちの手で世話をすべき地球大の多自然ガーデン[rambunctious garden]という、もっと豊かな含意のある思いに、心を開く必要があるのだ。

 公園や保護地域だけが多自然ガーデンなのではない。ありとあらゆる場所が多自然ガーデンだ。公園でも、農地でも、パーキングやファストフードショップの敷地でも、あなたの家の庭でも屋根でも、環状交差点の緑地でも、自然保護を進めることができる。多自然ガーデンは行動的で楽観的だ。残された自然地を壁で囲むばかりでなく、どんどん自然を創出してゆくのだ。

 多くの保護論者が自然の定義を見直すことに心開きはじめて、「手つかずのウィルダネス」という慣れ親しんだ目標を超越した、ありとあらゆる目標をすべて受け入れるようになりつつある。実践にあたって彼らは、後の章で紹介するような新しいツールやアプローチを自在に採用できることに気づく。試して見ると、そもそも彼らを自然保護の領域に踏み込ませるきっかけとなったさまざまな価値が、そこでもしっかり重要性を維持していることがわかってくる。生存闘争に参加する種が、在来種ばかりでなくても、進化の進行を尊重することはできる。土壌形成や雨水浸透などの生態学的な過程を保護することもできる。生物多様性が本来の地でない場所で確認されても、それに驚異を感じ、その保全のために戦うこともできる。人の影響が見えても、そこに自然の美を見出すことも可能だ。その気になれば、裏庭に至高なるものを見ることもできるのである。

 

●自然を「過去の状態に戻す」ことの矛盾

 しかし、自然に関する私たちの思いを変えることは簡単ではない。あなたにとっても、私にとっても。ウィルダネスを研究し守ることに人生をかけてきた人々にとっては、とんでもなくつらいことになるのだろう。何が自然なのか、守られるべきものは何なのか、という問いに直面すると、感情を脇におく訓練を積んできたはずの科学者たちが、もっとも感情的になり頑固になることもしばしばなのだ。

 自然の概念を拡張することに関心のあるものも、問題に突き当たる。定常的で、手つかずのウィルダネスがあらゆる景域の理想だとする考えが、とくにアメリカ合衆国では、生態学や自然保護の領域に深くおりこまれてきた。たとえば、「基準となる過去の自然[baseline]」という観念がある。環境変化にかかわる研究のほとんどが、基準となる過去の自然という考え方を前提とし、利用している。基準となる過去の自然は、準拠すべきとされる状態、典型的には過去のある時点における状態であり、マイナスの変化が起こる前のゼロ点とされる。アメリカ大陸では、ある地域の基準となる過去の自然は、ヨーロッパ人が到来する以前の自然とされるのが普通だった。しかし、オーストラリアから南北アメリカにいたるまで、各地の先住民たちが周囲の環境をさまざまに改変したことがわかってきた現在、そもそも人類が到達する以前のアメリカの自然を過去の基準とすべきという議論もある。多くの自然保護者にとって、アメリカの自然を、人類到達前、あるいはヨーロッパ人到達以前に戻すことは、傷つき、病んだ大地をいやすことだと、受け取られている。自然を壊したのはわれわれだ。だからわれわれがもとに戻さなければならない。かくして、基準となる自然は、自然の現在、過去を比較する科学的な装置ではなくなるのだ。それは、善なるものであり、目的であり、唯一の正しい状態とされるのだ。

 この方式にそって地域再生や公園管理をめざす自然保護者は、まず、基準とする過去の自然を決めなければならない。次いで対象地域のその時点の特徴を見極める。どんな種類の生物が、どんな割合で生息していたのか。川はどこを流れていたか。深さ、幅、流速はどうだったか。水際線はどこにあったか。土の特性はどうか。基準とする過去の時点とそのときの地域の特性を絞れたら、地域を過去の状態に戻す大仕事に着手しなければならないのだ。除去される生物種があり、再導入される生物種もある。河川の工事が進み、土の島が配置され、一部の甲虫たちの腐食質の生息環境を用意するために樹木が伐採されることもある、等々。

 しかし生態系は移ろいやすい。基準となる過去時点の自然を決めるのは、簡単ではない。たとえばハワイ諸島の例がある。世界でもっとも僻地にある島々。数百種にのぼる固有種の多くは希少種で、絶滅の危機にある。以前の生態学者たちなら、この群島について基準とすべき過去を、ジェームス・クック船長がハワイ島に上陸した1778年にしたかもしれない。しかし、ハワイ諸島の自然を1777年以前の状態に戻すというのは、少なくとも当地にすでに1000年は暮らしていたポリネシア人たちが大規模に改変していた自然の状態に戻すということになる。それは、ポリネシア人たちが導入したタロイモ、サトウキビ、豚、鶏、ネズミなどが生息し、入植以来すでに少なく とも50種の鳥が狩猟によって絶滅していた、半ば人工化された景域なのだ。

 人類がまだ到達していなかった数万年前に基準点を移す選択をすると、そこでもまた別の問題に直面する。人間が関与しようがしまいが、生態系はつねに変化する。樹齢数千年の森林は、私たちから見れば時間を超越しているように感じられるかもしれない。私たち人類は、寿命の短い動物で、自分たちの世代時間の数倍を超えるような時間スケールを把握するのがまことに不得手なのだ。しかし、地質学者や古生物学者の視点からすれば、生態系は不断の舞踏状況にある。構成種は競合し、対抗し、進化し、移動し、新たな生物群集を形成し続ける。地質の変動、進化、気候サイクル、野火、暴風、そして変動する個体群。自然はつねに変化するのだ。ハワイでは、どの地点であれ、大地は数百年に一度、噴火活動でまっさらにされる。海を越え、風に乗って島々にたどり着く生物が新しい生息地に適応し、島々の生態系のなかに自分たちの場所を見つけてゆくのだ。

 そんな時間の流れのなかで、任意の時間を特定してしまえば、その都度新たな問題が発生する。花粉化石の記録から、樹木の年輪に刻まれた気候の記録まで、過去を探るのに利用できるあらゆる科学的な手法を駆使したとしても、1000年どころか100年単位の過去において、地域がどんな様相だったのか、明らかにはしきれないのである。

 人間の関与する以前の基準となる自然を決めることに関して、最終的でもっとも困惑する事情は、野生地の管理や再生作業そのものによって、それが、今後ますます難しくなるということだろう。最大級の国立公園の最深部から、地域の大規模商業施設の裏の雑草地にいたるまで、生態系はすべて人の手が及んでいる。私たちは地球のいたるところで自然のるつぼを攪乱している。さまざまな種を移動させている。地球の温度を上昇させている。多数の動植物を家畜化・栽培植物化している。そしてさらに多数の種を絶滅に追いやっている。私たちは文字通り地球全体を改変している。どの地点であれ、その変化をもとに戻すことは、ますます困難になっているのである。

 

●世界の絶滅首都=ハワイで移入種を除去したら……

 問題の大きさに私が最初に直面したのは2009年、ハワイを訪問したときのことだ。ホテルの窓の外の熱帯樹は素晴らしい眺めだったが、そのなかには、人為的に導入され、いまや在来種にとって脅威と考えられている樹種がたくさんあることを私は知っていたのである。ハワイが、「世界の絶滅首都」と呼ばれていることも、当地の美しい野鳥のなかに、絶滅し、また絶滅に瀕している種が多数いることも承知していた。『セントルイス・ポストディスパッチ』誌のレポータの表現によれば、ハワイは、「合衆国最大の生態学的な災厄」だが、にもかかわらず、ハワイ諸島は、過去のハワイの自然の回復をあきらめない多数の自然保護活動家で、賑わっているのである。

 最初に訪問したのは、ハワイ島東部で、低地林の回復可能性をテストしている実験区画だった。実験区画は、ハワイ州の国家陸軍警備隊のケアウカハ基地の森のなかにあった。このタイプの森林は、降水量の多い低地に広がっていたため、そのほとんどが農業のために伐採されてしまっていた。かろうじて残った森、あるいは再生した森に優占するのは、ハワイ島の外に由来する種類だった。

 ハワイ大学ヒロ校のレベッカ・オステルターグの説明によれば、ハワイ諸島に侵入種がはびこりやすいのは、3000万年にわたって隔離され進化してきたハワイの植物は、競争の厳しい大陸で進化した侵入種に比べて、成長が遅く、栄養の摂取効率も悪いからだという。同様に、ハワイ在来の鳥やその他の動物たちも、移入種に対抗する力はないというのである。鳥マラリアで絶滅した在来の野鳥も多い。最近までハワイにヤブ蚊はいなかったので、ハワイの野鳥たちは、ヤブ蚊の媒介する病気への耐性を進化させなかったのだ。ハワイのラスベリーやバラは棘がない。ハワイ産のハッカ類は、ハッカの香りのする防衛物質を欠いている。防衛対象とすべき、草食性の哺乳類がいなかったからだ。そんなやわな在来種は、本土から人の持ち込むもっと強い種にやられてしまうのである。現在、ハワイ諸島に知られる植物種の半数が、外来種といわれている。多くの低地林において、在来種は、巨木ばかりである。樹冠の下には、外来種の実生が一面に広がって、在来種の巨木が倒壊する日を待っている。そのような場所を、「生ける屍の森」と呼ぶ生態学者もいるのである。

 

目 次

第1章 自然を「もとの姿に戻す」ことは可能か
自然は「遠きにありて思うもの」ではないはずだ
自然を「過去の状態に戻す」ことの矛盾
世界の絶滅首都=ハワイで移入種を除去したら……
ハワイでも問題となる「基準となる過去の自然」
過去を取り戻すための、オーストラリアでの驚くべき苦闘
古い「教義」から自由になりはじめた生態学者たち

第2章 「手つかずの自然」を崇拝する文化の来歴
イエローストーンが「母なる公園」と呼ばれる理由
ウィルダネスの征服の時代――1860年代まで
自然保護運動家ミューアの時代――1860年代以降
「ウィルダネス崇拝」のはじまり――1890年代以降
「ウィルダネス崇拝」の先鋭化と強大な影響力
人間を排除すれば、自然は安定するのか
生態学の理論は現実に合わなかった
自然の変化の激しさは生物も対応できないほど
変化するイエローストーンをどう管理するか

第3章 「原始の森」という幻想
ウィルダネスの聖地・ビアロウィエージャ
実はビアロウィエージャは「手つかず」ではない
ビアロウィエージャには現在も人の手が入り続けている
先住民族が多くの大型動物を絶滅に追い込んだ
先住民族はその後も環境に影響を与え続けた
生態学や自然保護運動はなぜ人間を排除したのか
環境活動家はウィルダネスをどう考えているか
ビアロウィエージャの自然はさらに改善できる?

第4章 再野生化で自然を増やせ
オランダの干拓地で太古の草原を再現する
「更新世再野生化」とは何か
北米の更新世再野生化計画に対する賛否両論
アメリカに大型動物を導入するのは本当に問題か
過去を指向しながら新しい生態系を創出する
再野生化で太古のヨーロッパの姿を明らかにする
「人工的な野生」で自然を増やす

第5章 温暖化による生物の移動を手伝う
温暖化に適応する生物の移動は間に合うか
動植物は実際に極方向や高地へ移動している
生物の移動に手を貸すことを躊躇する研究者たち
タブーに挑み、立ち上った市民ナチュラリスト
人による移転という考えを生態学者が認めはじめた
「管理移転」は既成事実化しつつあり止められない
管理移転の指針作りのための実験は意外に困難
ここでも「手つかずの自然はない」ことが問題に
温暖化に対応した最適の植林パターンを探す実験
林業関係者が戦慄した気候予測地図
営利活動による管理移転計画への賛否両論

第6章 外来種を好きになる
外来種は必ず生態系を崩壊させるか
外来種とそれに対する人間の対応の歴史
外来種駆除の現場では何が行われているか
外来種は生態系の不安定化・多様性低下の原因か
従来の「侵入生物学」に異を唱える生態学者
外来種と交雑する「遺伝子汚染」をどう考えるか
画一的な外来種駆除が無意味なら、何をすべきか
外来種を利用しはじめた自然保護論者たち

第7章 外来種の交じった生態系の利点
外来種でできた生態系を持つ島
外来種が在来種より優れている場合がある
「新しい」生態系は生産性も多様性も高く健全かもしれない
はびこる外来種も時間とともに沈静化する
「新しい」生態系が覆う面積は地球の何割か
有用な「新しい」生態系の外来種を除去すべきか
「新しい」生態系の変化を研究すべきだ

第8章 生態系の回復か、設計か?
「川」は人工物であるという発見
生態系を回復するのでなく目的に合わせ設計する
生態系を「設計」する必要があるのはどんなときか
デザイナー生態系とウィルダネスと多自然ガーデン

第9章 どこでだって自然保護はできる
重金属に汚染された川の改善の未来像
あらゆる方法で自然を増やし改善すべきだ
自然回廊で保全地域同士をつなぎ合わせる
減税措置などで農業者も保全活動に巻き込む
農業と自然保護の最適解を求める試み
工業地域や高速道路にも自然は増やせる
狭い庭やバルコニーの小さな自然も有意義
散水も肥料も少なくてすむ野生の庭・在来種の庭
造園家が温暖化適応策にかんする情報提供者に
近くの自然を発見し、近くに自然を受け入れる

第10章 自然保護はこれから何をめざせばいいか
「昔に戻す」以外の自然保護の目標を議論する
目標1――人間以外の生物の権利を守ろう
目標2――カリスマ的な大型生物を守ろう
目標3――絶滅率を下げよう
目標4――遺伝的な多様性を守ろう
目標5――生物多様性を定義し、守ろう
目標6――生態系サービスを最大化しよう
目標7――精神的、審美的な自然体験を守ろう
多様な目標を土地ごとに設定しコストも考慮しよう

 

★以下のリンクで、本書の「訳者あとがき」をご覧になれます。

honz.jp

★以下の紹介文もごらんください。

soshishablog.hatenablog.com

著者紹介

エマ・マリス

サイエンスライター。自然、人々、食べ物、言語、書籍、映画などについて執筆。数年間記者として勤務していたネイチャー誌のほか、ナショナルジオグラフィック、ニューヨークタイムス、ワイヤード、グリスト、スレート、オンアースなどの雑誌・新聞に寄稿している。ワシントン州シアトル出身、オレゴン州クラマスフォールズ在住。

訳者紹介

岸由二(きし・ゆうじ)

慶應義塾大学名誉教授。生態学専攻。NPO法人代表として、鶴見川流域や神奈川県三浦市小網代の谷で〈流域思考〉の都市再生・環境保全を推進。著書に『自然へのまなざし』(紀伊國屋書店)『リバーネーム』(リトル・モア)『「奇跡の自然」の守りかた』(ちくまプリマー新書)など。訳書にドーキンス『利己的な遺伝子』(共訳、紀伊國屋書店)ウィルソン『人間の本性について』(ちくま学芸文庫)ソベル『足もとの自然から始めよう』(日経BP)など。国土交通省河川分科会、鶴見川流域水委員会委員。

小宮繁(こみや・しげる)

 慶應義塾大学理工学部講師。慶應義塾大学文学研究科博士課程単位取得退学(英米文学専攻)。専門は20世紀イギリス文学。1989~91年、ケンブリッジ大学訪問講師。2012年3月より、慶應義塾大学日吉キャンパスにおいて、雑木林再生・水循環回復に取り組む非営利団体、日吉丸の会の代表をつとめている。訳書にステージャ『10万年の未来地球史』(岸由二監修、日経BP)。

 

 
「自然」という幻想: 多自然ガーデニングによる新しい自然保護

「自然」という幻想: 多自然ガーデニングによる新しい自然保護