草思社のblog

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水産業のルーツを探る  『江戸前魚食大全』(冨岡一成著)より

 先日、CSの教養番組で日本古来の漁業に北方型と南方型の二系統があることを解説していました。日本列島に押し寄せる北の寒流と南の暖流は、日本海側では能登半島付近で、太平洋側では銚子沖で合流し、これを境に日本列島近海の魚介類の分布を南北に大きく二分します。
 寒流域にある北方型漁業の特徴はいわば小種多量型で、サケ・マス・ニシン・昆布など、漁獲対象は少ないながら、季節性が強く毎年決まった時期に大群であらわれたので、ときに潤沢な獲物に恵まれました。ただし漁法はいたって素朴であったので大量漁獲は望めません。保存法も天日と冷風の自然利用による素干しが一般的で、スルメ、みがきニシン、棒ダラ、カズノコなどがその代表です。
 いっぽう暖流域の南方型漁業ではブリ、マグロ、カツオなどを筆頭にさまざまな魚種が漁獲対象となりそれに応じて網、釣り、もぐり漁など漁法も多様化しました。漁業形態は北方型よりも複雑であり、また先進的な面が強かったと考えられます。また、なますやたたきといった生食が早い時代からおこなわれていました。魚は活き活きしているのが旨いという感覚も南方型漁業の特徴だったようです。
 ところが、両者のちがいは自然条件によるものとばかりも片づけられない、もうちょっと込み入った事情がありました。結論的に申し上げると、北方型は古モンゴロイド系の縄文人に伝わる伝統であり、これに対して南方型は東アジア沿海よりの渡来系弥生人の集団である海人(あま)族よりもたらされたと考えられます。
 漁撈技術において優位性を持つ海人族は西日本を中心とする沿岸一帯を席巻するように生活圏を広げていきました。とはいえ一方が他方を駆逐するような形をとらなかったことで、漁場をめぐる争いなどはあったにしろ、民族同士の棲み分けはできていて共存関係にあった。それが自然地理的条件とあいまって北方型漁業と南方型漁業というきわだった流れが後世まで残されたと考えられます。とはいえ海人族のもたらした先進技術が、のちの日本の水産業をひらくルーツになったといえるでしょう。
 海人族は古代・中世の日本で海川を舞台として自由闊達に活動しました。かれらは魚貝をとり、海辺で製塩をおこないます。そして船を巧みに操って交通、物流を担うとともに、ときには武装して権力者の水軍となり、激しい戦闘をくり広げたのです。漁民と呼ぶには、あまりに多彩な活動をおこなうかれらは「海民」と総称されます。
 今回は『江戸前魚食大全――日本人がとてつもなくうまい魚料理にたどりつくまで』より、日本の水産業のルーツともいえる海人族の特徴についてみていきましょう。

海人たちは、長い期間をかけて日本に渡ってきた。単一の集団ではなく、移動ルートもいくつかあったと考えられる。それぞれに漁撈方法や航海術も異なっていて、素潜り漁の得意な集団もあれば、突き漁をおこなう集団もある。沿岸に定着する集団もあれば、漂泊的な移動をおこなう集団もある、といった具合だ。弥生時代中期から古墳時代にかけて、およそ一〇〇〇年のあいだに列島各地に広がったが、いくつかの代表的なグループに分かれる。
現在の福岡県宗像(むなかた)市鐘崎(かねさき)を根拠地とする宗像海人は、朝鮮半島から壱岐・対馬を経由して北九州に渡ってきた倭人である。操船術に長けた集団で、朝鮮半島、中国大陸への遠洋航海も日常的におこなった。
また、潜水漁によるアワビとりを得意とする。おそらく「魏志倭人伝」に出てくるのは宗像海人なのだろう。かれらはあらたな漁場を求めて、半島伝い、島伝いに移動した。壱岐の小崎浦、対馬の曲まがり、山口県角島(つのしま)近郊の大浦、石川県の輪島などはいずれも鐘崎の枝村であり、海士(海女)のアワビ漁で知られている。
同じく北九州でも、福岡県の粕屋郡志賀島を根拠地とする安曇(あずみ)海人は、むしろ沿岸漁業を得意としたようだ。移住地域は、九州から瀬戸内海の沿岸地域を席巻するように広げて近畿に入り、そこから渥美半島、伊豆半島にまで達した。渥美や熱海、滋賀などの地名は、安曇、志賀島との関連が指摘され、海人によって開かれた土地ではないかといわれる。かれらのうちには「陸上がり」をして、内陸部に入植した集団もいたという。糸魚川から姫川沿いに南下して、長野県の安曇野を開き、そこから各地に安曇の地名をもつ集落が広がったというのだ。安曇海人は、ヤマト王権により阿曇連の姓を賜っている。中央政府との結びつきが強く、古代海人族のなかで最も勢力を張った集団であった。
一方、中国沿海から台湾、沖縄方面を経て九州西南地方へたどりついた者たちもいる。かれらは熊襲と呼ばれるが、後にヤマト王権に仕えた者は隼人と称された。『肥前国風土記』に「白水郎(海人)と隼人は言葉も顔立ちも似ている」とあるが、どちらも倭人なのだから当然である。ただし数世紀を経て、両者の性格はかなり異なってくる。中央政府に対して、北九州の海人たちが恭順的なのに比べて、隼人はかなりの抵抗を示した。民俗学者沖浦和光氏の『瀬戸内の民族誌』(岩波書店・一九九八)によれば、隼人系海人族は後に瀬戸内海水軍の中核として成長していく、最も戦闘的な海民集団であったという。
海人族=海民の移動によって海上交通がうまれ、人とモノが運ばれていく。集落と集落が海上ルートで結ばれて交換経済が発達し、離れた場所ともネットワークがつながる。少なくとも三世紀の邪馬台国の時代までに、日本列島周辺と朝鮮半島、中国大陸を結ぶ海上ルートが開かれていた。
現代は陸上交通が主流だが、それは最近の一〇〇年ほどのあいだにつくられたもので、それ以前の約二〇〇〇年間は、海を中心とする流通がおこなわれてきた。その根本をつくったのが海民の全国的な伝播であったといっても、決して大げさではない。

 およそ四世紀半ばにヤマト王権が成立すると、有力な「海民」が傘下に組み入れられ、八世紀以降の律令制国家では朝廷に海産物を貢納する贄人(にえびと)のような「特権的海民」をうみだす一方、貿易や物流による大きな利益をもたらす「海民」たちの多くが大社寺や権門勢家の貴族たちの荘園や公領に囲い込まれていきました。
 このうち「特権的海民」から魚問屋や廻船人がうまれて、水産物流通を形づくるようになり、のちには生鮮市場をひらくにいたります。荘園・公領においては漁奴的な生産者であった「海民」たちも戦国時代になると自治的な村をつくり、これが近世以降の漁村の基礎となりました。
 深淵な「海民」の歴史を詳述しようとすれば、相当読みごたえのある大著にならざるをえないのですが、『江戸前魚食大全』はたったの20数ページでまとめているのだから、ずいぶんと無茶をしたものです。けれども、江戸時代以前の水産業のあらましをざっと俯瞰できてしまえるし、ちょっと婦人雑誌的にいうと収納上手な奥さまといったまとめかたになっていて、必要な知識はあらかた入っているから便利といえるでしょう。

(筆者/冨岡一成)

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