草思社のblog

ノンフィクション書籍を中心とする出版社・草思社のブログ。

試し読み 『勝海舟 歴史を動かす交渉力』山岡淳一郎著

第四章「大江戸開城の大交渉」より抜粋

 勝は、西郷を圧倒する気魄で談判(江戸開城交渉)に臨むために恐るべき戦術をたてていた。もしも交渉が決裂して官軍が攻撃に移ろうとしたら、即座に四方八方へ秘かにしらせ、「江戸市街を焼き、敵の進退を断ち切り、焦土となす」作戦の準備をしていたのである。火炎の壁で官軍の進軍を阻む「江戸焦土作戦」は、一八一二年にナポレオン・ボナパルトがロシア遠征でモスクワに侵入したときに炎上する街をあとに退却した史実を参考にしていた。
 現代のビジネスにおける「交渉学」では、しばしば「BATNA(Best Alternative To a Negotiated Agreement)=合意が成立しなかったときの最善策」が重要だといわれるが、百五十年も前に途方もない規模で、勝はそれを用意していた。

 

 焦土作戦を立てるに当たって、勝はごくしぜんに庶民を使おうとした。そのなかには最下層の人びともいた。そもそも江戸の治安維持は勝の変わらぬ役目であった。官軍の急迫で人心がかき乱され、江戸府下の不埒な輩が財物を強奪し、火を放って町が灰燼に帰すのを防ごうとした。まず勝はメモ用の帳面を持って、火消組の頭、博徒の長、非人の長、名望のある親分と言われる者たち三十五、六名の間を飛び回り、密かに火災を防ぐ組織をこしらえた。かれらを一堂に集め、「おれの指図で動いてくれ」と説き、納得させた。

 

理屈をこねるばかりではない。雑費として幾ばくかの金を与え、「めいめい勝手な行動は慎んでくれよ」と言い渡す。水面下で庶民の防災ネットワークをこしらえたのである。勝から直接頼まれた面々はいたく感激し、「あっしも男だ。勝先生に命を預けやす。子分に暴れさせたりは致しやせん」と誓った。組織のことは他言しないと誓い合い、勝の号令一下で一斉に火消しに奔走する態勢がつくられたのだった。

 

(中略)

 

 …組織した下層のネットワークを、勝は、西郷との談判をまえに「火消し」から一転「火つけ」に百八十度転換しようというのだから、強面の親分連中も驚いたのなんの。焦土作戦を話し合う寄合いで、火消組の頭は、「勝先生、あっしは親の代から火を消してめぇりやした。隣近所からも喜ばれ、纏を振ってきた者でございます。いまさら、火つけをしろと……ほんとうにやっちまっていいんでしょうか」と当惑した。
「そうだ。思いっきり、やってくれろ。火をつけて官軍のやつらを江戸市中に近づけねぇためだ。だがな、おれが合図するまで、早まっちゃいけねぇよ。何も、江戸の民を焼き殺そうってわけじゃねぇんだ。ここからが肝心だ。聞いておくれ。おい、船頭さんたち」
 と、勝は、少し離れて控えていた船方衆を話の輪に引き入れた。

 

「火を放つと決まったら、船頭さん、おめぇさんたちは、房総から江戸前あたりの大小の船を速やかに江戸に引き入れ、川の河岸という河岸、着船場、ありとあらゆるところで人を乗せて、運んでやってくれ。一人も残しちゃいけねぇよ。助けるんだ」
「へぇ。すぐに船は集めやしょう。どうぞご安心を」と船頭の親方が胸を叩いた。

 

 避難民の護衛は、魚河岸の兄さんたちに任される。武器は魚をさばく出刃包丁だ。
「よしきたッ。包丁でサツマイモ(薩摩軍)をぶった切りましょうかね」
「そんときゃ、頼むぜ。まぁいいや。焦土作戦は、最後の最後、奥の手だ。くれぐれも、早まるんじゃねぇよ。おれが合図をしたら、一気呵成にやるんだ」

 

 勝の肚は据わった。
 談判をまとめなければ、江戸が火の海となる。大悪行に手を染めてしまうのだ。もう後はない。退路を断った勝は、池上本門寺の西郷に面談を申し込む手紙を送った。

 

両雄は、高輪の薩摩藩下屋敷で、三月十三日に相まみえることとなった。

 

(以下、いよいよ歴史を動かす大交渉へ)

 著者紹介

山岡淳一郎(やまおか・じゅんいちろう)

1959年愛媛県生まれ。ノンフィクション作家。「人と時代」を共通テーマに近現代史、政治・経済、建築、医療など分野を超えて旺盛に執筆。時事番組の司会、コメンテーターも務める。著書に『後藤新平 日本の羅針盤となった男』『田中角栄の資源戦争』(以上草思社文庫)、『日本電力戦争』(草思社)、『神になりたかった男 徳田虎雄』『気骨 経営者土光敏夫の闘い』(以上平凡社)、『逆境を越えて 宅急便の父 小倉昌男伝』(KADOKAWA)、『成金炎上 昭和恐慌は警告する』(日経BP社)、『原発と権力』『インフラの呪縛』『長生きしても報われない社会 在宅医療・介護の真実』(以上ちくま新書)ほか。東京富士大学客員教授。一般社団デモクラシータイムス同人。

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